鬼滅の刃 192話で分かる鬼殺隊が鬼を殺しても良い理由

鬼滅の刃 192話で分かる鬼殺隊が鬼を殺しても良い理由

炎舞からの円舞、ヒノカミ神楽『十三の型』の正体が明らかになったエピソード。

と同時に縁壱が遺したものが重すぎた。

良い機会なので、今回は鬼と鬼殺隊の違いを軸に見ていきましょう。

 

伝える為に

気付けばもう192話。早いよね。無惨との戦いからは緊張感が続いたのでより早く感じる。

タイトルは「廻る縁」

内容に合った良いタイトル。普通少年漫画ってバトルや、それに関する要素を押し出すことが多い。ましてヒノカミ神楽『十三の型』というと最強クラスの技なわけです。となれば、そこを意識したタイトルになりそうなもの。なのに今回は縁壱が残したもの、遺したものを意識して考えられてますね。

 

 

Twitterで前に「人は鬼を殺すのになぜ鬼が人を殺すのはいけないことなのか」みたいなことを呟いている人がいましたが、これがその答え。

人には繋がりがあるが、鬼には繋がりがない。

鬼はある意味、究極生命体ではあるんだけど、とても閉鎖的です。その『個』で完結している。つまり死んだらそこで終わりです。

だけど人は死んでも、負けても、意志を繋げられる。その違いが鬼殺隊が存在しても良い理由なわけです。

 

炎舞から始まる

 

 

作者がどこまで考えているのかはわからないけど、型の方も人側に「繋げる」技を用意しましたね。

無惨の方が単純な力なのでより対照的に見える。

ただ円自体には終わりがないとも言えるので、最終的には終わりがない技になるんじゃないかなと、個人的には予想しています。

 

 

この漫画の主人公はワンピースやNARUTOとかの逆を行っているような、そんな気がします。

少年漫画って主人公の周りに天才キャラが出てくるんだけど、最終的にはその天才を上回る設定や持って生まれた能力が備わっていることが多い。血筋とかチャクラ量、九尾とかもそうかな。

だけど炭治郎って持って生まれたものが何も無い。後天的に得た能力で戦ってきた気がする。『ヒノカミ神楽』自体は他にはない無惨を倒すための武器ではあるけど、それにしたって生まれ持った力ではない。

 

すやこ最強説に鬼滅のテーマがある

ここからはちょっと冗談っぽい内容。

基本的にこの作品は人間賛歌から生まれる未来がテーマになっていると思っていて、その流れを組むとすやこさんとか、子供のように幼いキャラクターが最強なのでは、という理論。

 

 

縁壱を照れさせるんだから、そりゃもう強いですよ。

可愛いは正義、正義は強いですから。そりゃもう強いです。

 

縁壱の「ありがとう」は、これはね、鬼殺隊の面子では引き出せないんですよ。

あれだけの強さを持った集団でも、最強(縁壱)を笑わせることができない。それを踏まえると、守られる者というのはある種の強さを兼ね備えているんじゃないかと思います。

 

まとめ

負けたとしても意志を繋げられるのが人の強さ。みたいな。

だけどこれは精神的なものへの回答であって、現実的な回答ではないです。鬼のなかにも精神的には人に近い者がいるし、逆に人の中にも鬼に近い者はいる。これはつまり人であっても邪悪であるならばあるいは……とも言える。

なので現実的な回答は別にあります。

端的に言うと、現実的な意味で鬼殺隊が鬼を殺してもいい理由は鬼が人を喰らう生物だから。ただそれだけです。その時点で共存は難しい。鬼が弱い生き物であれば人も動物を食べるじゃないか、と言えるのかもしれませんが。

禰豆子が人を食べていなくて本当に良かった。

 

 

集英社/週刊少年ジャンプ2020年10号